本当に、もう二度と会うつもりはなかった。

だが、心のどこかでは望んでいたのだろう…『沼』攻略の直前に、高飛びの準備までしておきながら、結局、事務所も自宅も元の場所に構えている。グループ全体にとっては裏切り行為そのものをしておいても、遠藤は帝愛グループから抜けることはなかった。

少なくとも自分の社員の食い扶持のためには、多少のちまちまとしたイヤガラセはあろうとも、帝愛グループの組織力はやはり必要…零細企業の代表者の決断としてはごもっともだが、それは建前。会長の醜悪なツラに怖気が走ろうとも、遠藤とカイジをつなぐ絆は会長の仕掛ける悪趣味極まりないギャンブルと、それにまつわる金だけだ。

再会がカイジにとって、絶体絶命を意味することだとしても、遠藤の無意識下の望みは止めることはできなかった。

そして…またあっけないほど簡単に、その日は訪れた。


嫌な意味でカイジびいきの会長は、またもカイジをスカウトしてくることを要請してきた。しかもトップダウンの勅令である。

もし会長直属の黒服からの要請なら、あるいは逡巡していたかもしれない。カイジに会いたいと望んでいても、自分自身の『平常』を保つためには認めてはいけない感情だからだ。だが、組織の最高責任者からの直接電話がかかってきたら、受けないわけにはいかない。

会う理由の条件付けは強固なものとなり、自分の心に対して開き直ることとなり…結局、『ヤクザな悪徳金融業の男』としての『普通』を望む気持ちは、あっけなく『最愛の人との再会』というイベントに押しつぶされてしまうのである。

(彼の親なら『悪徳金融業社長の息子』と『いい年こいて未だ独身、あげくかなり年下の男に走ってしまった息子』のどちらでも泣くとは思うが、個人的には後者の方がまだマシ…のような気がしないでもない)


 

そうこうするうちに、遠藤の運転するBMWはカイジの住むアパートに到着。

逃亡生活と地下生活の間に、元のアパートはとっくに引き払われていてもおかしくなかったが、沼勝負のあと、カイジはここに戻ってきていた。どうやらアパートに入居する際、保証人になっていた母親が、カイジが戻るまで家賃を大家に納めていたらしい。

在宅の印である、灯りのともる部屋を見上げ、そんないい親御さんがいるのに、息子といえば、親からもらった耳やら指やらをよりにもよってギャンブルで落とすわ…普通に考えれば、やはりロクなもんじゃない…などと、遠藤もチラリと思わないでもなかったが、そのきっかけは自分。そして、自分の本業は悪徳高利貸しで、副業は前途ある若者を闇に沈めること、そしてさらにはそのカイジをいろんな意味で攫ってしまおうと、進行形で画策しているのだから、チラリと覘いたカイジに対する非難の芽と、自分の中の良心のかすかな痛みには、あえてふたをした。



手にはやはり、深紅のバラの花束(前回より三割増量)。

女の所に行くならともかく、男の友人知人知り合いの自宅を訪ねるなら、とりあえず酒と肴が手土産だが、お互いを良く知っている間柄とはいえ、向こうから見ればこっちは裏切り者、また、遠藤からすれば、今度もファウスト博士を地獄巡りの旅にいざなうメフィストファレスの役回りだ。相手を非日常にいざなうのなら、小道具もそれなりに非日常的に…が、遠藤のちょっとした美学のようなものであった。

ノックの音がして数秒後、蹴り破るのは至極簡単そうなドアが開き、相手を確認した瞬間、血の気の引いたカイジは、勢いよくドアを閉めようとする…が、きっちり遠藤の片足分の幅が閉まらない。

必死で自分の手元にドアをひきつけようとするが、ドアがきしみ、蝶番が悲鳴をあげ、限界を訴える。

「んだよ、コレっ」

「スーツにも決まる、特注の安全靴だ。『マルサの女』見てないのか?」

「つーか、そんなことどうでもいいから帰れ!!あんたがドレスアップして花束なんか持ってくると、ロクなことがないっ」

「よーくわかってるじゃないか。でもまぁ、そう邪険にするな。ギャンブル中毒のカイジ君からすれば、チャンスだろ?この俺は」

「うっ…!」

硬直した瞬間を逃さず、遠藤は体をねじいれ、後手で鍵をかける。

ガチャリと鍵の下りた音が、やけに大きく響いた。

あの程度でひるむくらいだ。結局心の内では悪魔の来訪を待ち望んでいたのだろう。だが、それでもそれなりの安息と、地獄より生還を果たしたときの仲間と交わした誓いを守ろうとするかのごとく、カイジは声を荒げてみせる。

「やだっ!帰れっ!あんたに巻き上げられて、また素寒貧だけど、俺にはとりあえず、借金はないっ!」

「そう。とりあえず…な。でもまぁ時間の問題だろ。アレだけの刺激に焼かれた脳みそで、今更地道に働くなんて、おまえさんにゃムリだ。で、つまるところ、普通にパチンコスロット麻雀競馬あたりで小金をスリまくって、じわじわ借金が増えていき…ってのが、これからのお前の人生さ。なぁカイジ」

ぐっ…と言葉に詰まるカイジの肩をそっと抱き寄せ、幻惑するように耳元で遠藤は囁く。

「お前の勝負運は生き死にのレベルまでいかなきゃ、発揮されないんだ。そんな場面、『平凡な日常』ってヤツのどこにある?…俺とくれば、一晩で数千万とめくるめくスリルのおまけつきだ。負ければ間違いなく地獄の釜の底だけどな」

ぞくりと、遠藤の腕の中の体が震える。気温は暑くも寒くもないのに、過度の発汗、ほおは紅潮し、瞳は潤んでいる。否定の言葉を搾り出そうとするように、唇はわずかに動くが、結局言葉がつむがれることはない。

ったく、どうしようもねぇ…興奮してやがる。

意外なほど言葉の毒の回りが早く、いっそ押し倒すいい機会と、まだ手にしていた花束を落としたところで、再びノックの音がした。

いいところで獲物に突き飛ばされ、舌打ちする遠藤。

あせっているためにうまく鍵が開かず、気の毒なくらい、必死でガチャガチャとドアノブを回すカイジ。

開いた扉の向こうには…虚無僧がいた。

『坂崎?』

『おっちゃん?』

人生観の違いからあらゆる局面において、すれ違うばかりの二人の心の声が、この一瞬だけシンクロした。

いや、よく見ると違う…背は坂崎より高く、姿勢良く、また、いくら着膨れしていようと、全体的なフォルムはスマートだ。

凛と涼しげな若い男の声が、「お話があるのですが…」と控えめに告げた。

…怪しい。あからさまに怪しい。だが、カイジはいぶかしみながらも部屋に通そうとする。遠藤は小声でつついた。

「おい」

「なんだよ」

「どう見たっていかがわしいのに、そいつを入れる気か?」

「怪しいのはものすごく怪しいけど、これ以上あんたと二人っきりでいたら、俺、いろいろとやばい気がするから、まだマシ」

悪魔の誘惑を退けたどころか、カイジのあずかり知らぬところで、貞操の危機まで救った虚無僧だ。招かざる誘惑者の不穏な動きを止めるには、この計算外の出来事を利用しない手はない。

「立ち話もなんですから、中へ」

いくらカイジといえど、通常ならありえない行動である。だが、後門の危機の前に、防御本能の方向性が、このときばかりは完全に狂ってしまっていた。

隠されれば正体を知りたいのは人情。しかも心なしか、声に聞き覚えがあるような気もする。いくらなんでも、出された飲み物を前にかぶりものは取るだろうと、招かざる客2人にコーヒーを振舞うカイジだったが、それは虚無僧の

「私はや…いえ、御仏の教えにより、刺激物は取りませんので」

の一言で退けられた。

 『や…』?安物とか言おうとしたんだろうに、エセ坊主がっ!

 肝心のところを邪魔された遠藤は、ひどくご立腹である。

 正体を見曝せっ!と、天蓋を取り上げたら、さぞかしすっきりしそうなものだが、いかにも無理矢理押し入った「招かざる客」の自分とは違い、相手は不本意ながらもカイジが「招き入れた客」である以上、そうそう乱暴なこともできない。いらいらと、灰皿にタバコの吸殻だけが山になる。

  「あなた…人に騙されたり、裏切られたりということが、ここ1、2年でずいぶん多いでしょう?流れに翻弄されて、地獄と天国を行き来して、今やっとゼロの状態に戻った…違いますか?」

 唐突に切り出された虚無僧の言葉に、カイジはうっ…と、絶句する。まるっきりそのとおりだった。

  「…かわいそうに…それは前世からの因縁です。悪しき鎖が悪い縁によって、再びあなたを縛り付けているのです」

 涼しやかな声で浪々と語るその調子は神秘性を醸し出し、前世云々はともかく、思い当たる節がありありのカイジは、半信半疑ながらも、すでにその雰囲気に取り込まれそうになっている。

 舌打ちする遠藤。

  「おまえ…ほんっとーに悪いこと言わないから、これ以上は聞くのやめとけ?絶対後でありがたい印鑑とか、人形とか、仏具とか、壺とか出てくるから」

 めずらしく、本気で善意の意見だったが、それは虚無僧のキエイッという、わけのわからぬ奇声で打ち切られた。

  「お黙りなさい。これはあなたにもかかわりのあることなのですから、そこでおとなしくお聞きなさい」

 あーはいはいはい…と、遠藤はふてくされモードで、かなり短くなったタバコをひねりつぶした。
 とりあえず、カイジが聞くモードに入っている以上、この場で自分が何を言ったところで、最後には追い出されるのがオチである。虚無僧の目的がなんにせよ、それだけは避けなくてはならない。
 カイジを捕食していいのは、自分ひとりでいいのである。

 このとき遠藤は、自分が兵藤の使いでここにいることをすっかり忘れた。

 たもとから水晶球を出し、ちゃぶ台の上にうやうやしく置いた虚無僧は、口の中でなにやら唱えながら、精神統一を図る。大まかな因縁は見えるが、さらに細かなところまで探り、原因を突き止めるため…という名目だ。

  「カイジさん…とおっしゃいましたか…あなたは前世、華族の令嬢でした」

 げはっ…と、遠藤は飲みかけていたコーヒーを吹き出す。

言うに事欠いて、いきなりそれかっ!

 だが、カイジの脳内漢字変換機能は『華族』が『家族』としか変換できぬらしく、令嬢と聞けば金持ちのお嬢さんと、なんとなくわかっても、イマイチピンと来ていないらしい。

 不思議顔の視線が遠藤に向けられる。

 なんで俺が、わざわざ解説してやらねばならんのだ?と、頭をぼりぼり掻きつつ、それに答えてやるのだから、遠藤もなにげに人がいい。

  「華族っていうのはな、要は昔の日本の貴族ってことだ。その令嬢ってコトは、お姫様ってことだな」

  「げっ!」

 びっくり顔で絶句する様は、まぁ、可愛らしくてよい。くくくっ…っと遠藤は笑った。

  「その中でも伯爵の流れの血筋ですから、かなりの家柄のようですね、伊藤家は」

  「前世も俺、伊藤なのか?」

  「…まぁ、何度輪廻を繰り返しても、同じ血筋に生まれてくるということは、案外多いことですから、不思議ではないでしょう」

 あくまで淡々とした虚無僧の言葉に、遠藤の心の黒雲はモクモクと広がる。

苗字だけなら表札で確認て手もあるが、さっき、俺にも関係があるようなことを抜かしやがった…ってことは、これから『遠藤』とか『兵藤』とかこいつに関わる名前がごろごろ出てくるってところか…このエセ坊主、関係者か…さもなくば、カイジに狙い定めて調査入れてやがる。つーか、カイジよぅ…百歩譲って聞くだけならまだしも、会話するのはやめとけよ。相手のペースだろ、完全に。

このバカ、何度だまされれば気が済むんだろう?と、情けない気分の遠藤を置き去りに、話は伊藤家令嬢の育った環境、人柄等々について、滔々と語られている…伊藤家ご令嬢は要するに、血筋ゆえなかなかに誇り高いが、反面気さくな部分もあり、庶民にも分け隔てなく接していたので、なかなかに人気者だったらしい。他にもいろいろと、事細かな設定があるようだが、なかなかの名調子の語りを妙に感心した様子でふむふむと聞いているカイジとは異なり、完全に作り話として、基本的に聞く耳を持たない遠藤は退屈だ。

大体、こいつが『ご令嬢』って、ものすごいムリがないか?

などと、やけにシャープな横顔を、じっと眺めてみる。

う〜ん…顔のつくりとパーツが全体的にシャープすぎるから、全体的にもっと甘めに柔らかい線で…もちろん眉はもっと細めに…二重まぶたはいじらなくていいから、睫毛をもっとばさばさと増量…目は女の子で三白眼はちょっとアレだから、黒目がちに…

などと、妄想で整形。もっと笑えるものになるかと思ったら、『ちょっと気の強そうな美少女』になってしまい、自分でも驚く。

俺の好みの女のタイプは色っぽい熟女系なんだけど、これならこれで…ついでに名前も決めとくか。開司だから安直に開子…語感が虫か、仕事が決まっても即首になりそうだからダメだ。う〜ん…蚕から取れるのは絹だから絹子…時代的にはOKでも、なんかババくさいか?んじゃ繭子…おお、可愛らしくて清楚風じゃねーか(そうか?)。んじゃ次は…

と、次は胴体のイメージ作成。虚無僧の話の中では、『遠藤は伊藤家に仕える執事』とか言うことになっているらしいが、そんなことよりこっちの方がよっぽど楽しいのか、それまでがよっぽど退屈だったのか…

地下労働で筋肉がついたっつっても、元の骨組みはけっこう細めな方だから、全体的に筋肉削ってやっぱり線は甘めにしつつ、まぁ全体的にほっそりと…肩幅はもっと狭く、なで肩で…肝はやっぱ胸と尻だよな。個人的には巨乳が好みだけど、なにせいいとこの清楚で可憐なご令嬢だから、胸はでかくなく、こう…ささやかなんだけど、形が良くて、年食っても絶対崩れないような…となれば、尻も当然それに準じて…おお!

どうやら理想形のフォルムに仕上がったらしい。

と、なると、何を着せるか…華族のご令嬢なんだから、振袖友禅も捨てがたいが、あれ、いろいろ面倒なんだよな。脱がすのはいいんだよ。着せるのがアレで…玄人さんなら自分で着て帰れるけど、ご令嬢ってどうなんだ?やっぱお手伝いとかに手伝わせるのかね?…かといって昆布巻きでやるには…足が色っぽくてそそられるんだけど、着物汚したらと思うとおっかねーしな…

やる気らしい。

…となると、クラシカルな鹿鳴館風ドレスか?あーでも、華族制度って日本が第二次世界大戦で負けるまではあったんだから、割と近代的な清楚系ワンピースでもいいのか?うー…見慣れてる女の服って、良く言やぁお色気ゴージャス系ばっかだからなぁ…

そもそも時代設定はいつごろなんだ?と、少しだけ虚無僧の話を聞く気になってみれば、なにやら前世とやらでは不穏なことになっているようだ。

  「…と、まぁ、執事の遠藤は令嬢にひそかに想いを寄せていたわけですが、それを主人にうすうす感づかれるや冷たい処遇を受けるようになり、あまつさえ、令嬢が婚約することとなり、思い余った遠藤は、裏切り行為を働くことに…」

昔の色恋がらみで裏切りっていうと、やっぱあれか?お嬢様の寝室に夜這いをかけて、せめて一度でも想いを遂げようってやつか?

  『何事です!およしなさい、遠藤…』

とか強がりつつおびえた声のお嬢様の口をふさぎつつ、ベッドに押し倒し、まずはシルクのブラウスを引きちぎり(結局、部屋着設定で適当にしたらしい)、あらわになった白い胸元を掻きあわせようと必死のお嬢様の耳元で、

  『一度想いを遂げたら、もう自分は死んでもいいんです』

とか口説き…なんか本気で『好きだ』とか口説いたら、カイジだって男同士だからとかなんとか、最初は抵抗してみせても、結局土下座してすがりついたら、一回はやらしてくれそうな気がするもんな。だったら、前世は男同士って枷がない分、やりやすいか?いやでも、身分違いやらそもそも現代と貞操観念が違いすぎるしなぁ…

  『…一度…』

ん?

  『一度だけですよ…死ぬことは許しません。貴方は…例えわたくしが、どなたの元に嫁ぐことになっても、いつまでも、どこまでも一緒にいなくてはならないのですから…わたくしたちの心のうちは誰に悟られてもなりません。ですから、このようなことは今宵一度だけ…』

うぉ、僥倖っ!両想いじゃねぇか。

僥倖もなにも、遠藤の妄想である…が、妄想内での行動はソフトにだが、確実に熱を持ち始めていた。

しなやかな黒髪を優しく撫でながら、何度も羽毛が触れるような口づけを交わしたかと想えば、桜貝のような耳たぶを甘噛みし、自然とその唇は白く細い首筋をすべり、やがては柔らかな丘へとたどり着く。

乙女ゆえの恥じらいか、遠藤の指が、手のひらが、そして唇が体の線をなぞり、時に強く吸われるたび、初めは体をこわばらせ、小さく震える繭子だったが、次第に遠藤の愛撫を受け入れ、次第に緊張を解いてゆき…その声は儚く子猫のようだが、確かに愉悦の色をにじませ…

  「…が、遠藤によって女郎屋に売られた令嬢は、仇である兵藤家の主にご祝儀価格で処女を散らされ…」

  「んだとっ!」

カイジがリアクションする前に、遠藤が速攻で虚無僧の胸倉をつかんでいた。

あんのくそジジイっ!俺の大事なカイジの指を詰めたどころか、繭子の貞操までっ!?…つーか、せっかく俺がこれからってトコで何しやがるっ!

楽しい妄想は、いざ先端を…というところで、いきなりデカ鼻とシミが印象的なジジイのツラがイメージの中に割り込まれ、中断。…世の既婚男性が妻とのえっちでゲンナリするのが『最中に、いきなり女房が今日の出来事とか話し始め、場合によっては親父の顔でイってしまうことがあるのが嫌』というのがあるそうだが、これもある意味その状況。

しかも、カイジ…いや、ここでは繭子の初物まで奪われたのである。怒り心頭この上なし…

あまりの話の展開に、本来自分が怒ってもよさそうなものなのに、遠藤に先を越され、しかも遠藤が必要以上に激する理由がわからず、カイジはきょとん。

だが、あまりぐいぐい締め上げられて、自分の家で人死にが出るとまずい…と、ようやく考えが行き着き、止めに入ろうとしたところで、虚無僧の天蓋が飛んだ。

 その顔は、遠藤の『なんとなく関係者』と懸念から遠かった…と言うべきなのだろうか?顔全体…特に目元がひどく焼け爛れている。さすがに遠藤も「すまん」と一言侘び、天蓋を拾って手渡した。

 虚無僧は特に気にした様子もなく、受け取った天蓋をかぶると、こんなことを言い出す。

  「いえ。この怪我も御仏のお導きと申しますか…やけどを負った時より、常人とは異なる世界が見えるようになったのでございます。そして、神通力と申しますか…災いの原因が見えれば、おのずと避ける方法もわかってくるというもの。そこで…」

 袂より薄汚い小さな壺を出し、ちゃぶ台の上にことん…と置く。

  「貴方の場合はこれです…カイジさん。貴方の頭にはおそらく、現在も続いているであろう、因縁深き相手の顔が思い浮かんでいることでしょうが、その相手の顔を思い浮かべつつ、自然にこの壺が壊れるまで、ひたすら磨くのです。それこそが悪しき宿縁を断つ唯一の方法」

  「くれるのかっ!?」

  「気の毒な身の上の貴方に差し上げたいのは山々なのですが、これは大幅に圧縮した形で行う一種の修行。僧が長年かけて行うそれを、御仏の情けに縋り、自宅にいながらさしたる制限も受けずに行うのですから、それに対して相応の寄進というものをしなくてはなりません。あなたがこの悪縁を絶つには、最低一千万円と言ったところでしょうか?」

 ふざけるなっ!と、普段のカイジ及び、遠藤なら言っていただろう。だが、さすがにあの壮絶なやけどを見た後である。即、そのような切り替えしができない。

 繭子…繭子の貞操が…つーことはなにか?現世はカイジか?カイジなのか?指やら盗撮ライブで覗きだけじゃ飽き足らず、次はやっぱり貞操狙いなのか?いや、ジジイが手をつける前に俺が手をつければ…って、初物は俺でもジジイがやったら意味がねぇっ!

 前世妄想と現世妄想でぐるぐるの遠藤…通常なら考えられない行動に出る。

  「特別に無利子で貸してやる。買えっ!カイジ」

  「何言ってんだよ、遠藤さん。さっきは信じてないようなこと言ってたじゃないか。それに大体、俺、金が…」

 実はすべてが顔に出てしまうカイジにしては珍しく、『信じたふりをして話を聞いていたが、内心どうやって二人を同時に追い返そうか』などと考えていたのである。そして、最初、虚無僧に対して否定的だった遠藤が今は共闘状態…自分が想定していた力関係とは形が変わってしまって、カイジは内心あわてる。

 もしかして、最初からグルか?

 そんな考えがカイジの脳裏によぎったとき、不意にぎゅっと遠藤に手を握り締められた。

  「カイジ、あのジジイ…あのジジイだけはダメだ。神でも仏でも悪魔でも、あのジジイと縁を切るためになら、何でも利用しないと、お前、指やら耳やらはなんとかくっついたけど、そのうちそんなもんじゃなく、本当に大事なもんまでなくしちまうって…」

 相手の手を握り締め、時に親切に、時に熱く説教…それが遠藤のやり口。もうだまされない…と、遠藤の顔を見上げたカイジは、ぎょっとする。

 遠藤の鼻からぼたぼたと血が滴っていた。それは留まることを知らず、しだいに吹き出す量が増えているようにすら見える。

  「遠藤さん…鼻血出てるっ」

 妄想の女体化カイジ…繭子の姿態にあてられたか、それとも兵藤会長に犯されるカイジでもリアルに妄想でもしたのか…興奮して鼻血を噴くという、最近のギャグマンガではそうそうお目にかかれない状態に遠藤は陥っていた。興奮しているので、当然鼻息荒い。

  「そんなもんどうでもいいっ!それよりカイジ…たった一千万であのジジイと切れるんなら、安いもんじゃねぇか?頼むから、買っとけ?な?」

  「な?とか言われても、ないもんはないってっ!大体、貸すとか言っても、あんたも今日は持ってないだろ?」

  「金ならある」

 バッと広げた上着の下、スラックスのウエスト部分に札束がズラリ。

 カイジは頭を抱えた。

  「なんでそんなトコに金入れとくんだよ」

  「バカやろう!お前のせいで不本意に痩せたんだよっ!ウエストに詰め物しねぇと、勝負スーツが決まらねぇっ!」

  「自信満々でそんなこと言うなっ」

 自信満々で上着の前を開き、腹回りにぐるりと札束詰め込んで仁王立ちで鼻血をだらだら流しまくりの男…コートの下が真っ裸てのとは違うが、これはこれでなんとなく素敵に立派に変質的スタイルだ。なにかの呪いか?これが前世の因縁てヤツか?…う〜っ…確かに切りたいっ!実際、ホントに切れるもんなら安いのかもしれない…一千万。貸借の縁がまたできちまうけど、要はギャンブルで勝てばオールOKだもんな。くっ…

  「わかった。買う。買うから…頼むからとりあえず、止血してくれっ」

 そこでやっと、遠藤、鼻をハンカチで押さえ、血まみれの手でウエストから札束を抜き取りにかかる。血の指紋べったりの札束…普通に見たら犯罪の匂いがしそうだが、まさかこんな情けない理由で札束が血まみれになったとは、誰も思わない。

  「ほらよ」

 札束を渡された虚無僧…不本意な声を出した。

  「これでは貴方が私から壺を買い、カイジさんに与えてしまったことになりますので、カイジさんの修行にはなりません」

  「俺がカイジに貸して、その金で買うんだから問題ないだろう?」

  「借用書…」

 虚無僧の口からこぼれたやけに現実的、そしてイヤな響きを持つ言葉に、カイジはぴくっと引き攣る。

  「物事にはきちんとした形式も必要ということです。カイジさんが対価をご自分でこつこつ返すことが、また修行のひとつとなるわけですから、こういう形でお買い上げになるのなら、せめてカイジさんが借用書にサインするところまで見届けないと…」

 もうイヤだ、こんな生活…

 絶妙なタイミングで出された例によって判の押してある借用書を前に、カイジはクスンと涙ぐんだ。

 一応、若干の学習能力を駆使して、借用書を入念にチェック…確かに間違いなく、無利子で貸してくれる条件は確かなようだが、返済方法についてはなんだかごちゃごちゃとしている上、ところどころ血糊で読みづらくなっている。

  「遠藤さん、この文書の予備ってないのか?」

  「ふぁい(ない)」

 両方の鼻の穴に詰め物をした大の大人の気の抜ける返事…書き終わるまで出て行かない雰囲気の虚無僧までいては、なんとなく、血のついてない書面でないとサインできないとは言いづらい。

  「ほんとーーーーーに、無利子なんだな?元金以外、びた一文払わないからなっ!」

 口呼吸の遠藤は、両鼻に物が詰まって苦しいのか、会話するのも難儀そうに、こくこくと首を立てに振る。頭の悪い小学生みたいな様子の遠藤と目が合ってしまい、情けないやらなんやらで、カイジは「ちっ…」と舌打ちしつつ、借用書に署名し、遠藤に押し付けた。

  「いいんだろっ、これで!」

  「はい…結構です。ではカイジさんの手で、お金をこの風呂敷に包んでいただけますか?」

 これも修行とやらのひとつなのかと、ややいぶかしみながらも、いそいそと包む。

 ふと我に返ったカイジ…「領収書は?」と虚無僧に一声かけるが、虚無僧

  「お布施に領収書は必要ないでしょう…では、悪縁が断ち切れることをお祈りしております」

 そういい残すと、風呂敷包みを奪い取るようにして、虚無僧は脱兎のごとく去ってしまった。

 あまりにすばやく、まるですべてが夢だったかのよう…ぽかんとする二人の前に、小汚い小さな壺と、借用書だけが現実と知らせた。

 さて、住宅街を疾走する白の軽自動車(セールスの営業車で一番多いタイプ)の車中、天蓋を頭からはずした虚無僧は、べりべりと顔の皮をはがしていた。やけどの下から現れたのは眉目秀麗な美しい男の顔…一条である。

  「やりましたね!店長」

  「店長はよせ…それにしても村上、この特殊メイクはすごいな。正直、助かった…礼を言おう。各札束の天地一枚づつはお前にやる。メイクの制作料だ。なにも言わずに受け取れ!返品は受け付けん。いいな?」

 いくら右から左への金と言っても、他人の鼻血付きの金など、自分で触るなんてとんでもない…と、一条は、従順な元裏カジノ従業員に押し付けてしまうことにした。

店長一途な村上は辞退しようと思うが、一条の言葉の裏に異様に強い意志を感じられて口をつぐむ。

  「それにしても…」

  「どうしました?店長」

  「店長はよせ」

よせと言う割に横柄な態度の一条は、再び大きなため息をついた。

  「……いや…あんな馬鹿共相手に、どうして俺が地下に沈むハメになったのかと、情けなくなっただけだ」

  「店長が巧妙だっただけですよ。苦境を乗り越え、さらに強くなられたのですから」

  「だといいがな」

 カイジという短期間で外界に出た男の前例があったため、地下でいろいろインチキをやらかし、一時的にとはいえ、強引に地上に戻ってきた一条である。金がすべての兵藤王国…兵藤がいくら一条を嫌っているとはいえ、見合うだけの金さえ入れることができるのなら、地上での滞在時間を延ばしてやるしかない。

 とはいえ、働き口も一か八かのギャンブルも、兵藤によってすべて潰されている一条である…彼が選んだ外貨を稼ぐ手段は霊感商法であった。ただ、消費者は当然利口になっているため、毎日毎日高額商品を売りつけるのは至難の業。やってることはほとんど犯罪だが、精神的には過酷な修行僧そのものかもしれない。

  「…それにしても…」

  「まだなにか?」

  「ん…カイジの前世譚はな、兵藤がらみの苦境を貞操の危機に置き換えて、他にもいろいろ脚色して、俺が作った作り話なんだけど…」

  「……?」

  「あのジジイ、ホントにあの時代からあのまんま、生きつづけてる不死身のジジイのような気がしてきて、気持ち悪くなった」

 心底ゲンナリしている一条に、あははと笑い飛ばしてみせる村上だったが、それもあながちありえない話ではない気がしてきて、すっと背筋が冷える。

  「…ま、まぁいいじゃないですか。とりあえず今回も大成功だったんですからっ」

 とりつくろうセリフが白々しく寒い。

 車中気まずい雰囲気のまま、白の軽自動車は闇に消える。

  「へくしゅっ!」

 同時刻、某地区のとある豪邸にて、老人がくしゃみをする。

  「会長、お寒いのですか?」

 などと言いつつ、ひざ掛けを持ってくる黒服を軽く制し、

  「なに。犬がどこぞで吼えただけのこと。負け犬にはせめて吼える自由くらいないとのぉ」

と、妖怪はふぉっふぉっふぉっと笑った。

  「やめっ…だから、なんでこういうことになるっ!」

  「確かに無利子で貸してやるが、返済方法は『月々10万円の100回払い。現金で支払えない場合はその都度相応の肉体労働にて支払い』って借用書にあるだろうがっ!今回は初回分だっ」

 必ず契約内容を確認し…と、消費者金融のCMでお姉さんが言うことは正しい。くれぐれも借用書に勢いでサインなんぞしてはならない…カイジは遠藤に押し倒され…色気よりも雰囲気はプロレスに近い。

  「ばかっ!そんな借用書あるかっ!…大体、売春はハタチまでって」

  「それは帝愛グループ。俺と個人の契約ならなんの関係ない。お前、売春売春て嫌がるけど、売春も立派なサービス業だぞ?少なくともプーで稼げないお前より、ちゃんと労働に従事してるだけ立派」

  「一見まともそうな意見をこの状態でゆーなっ!つーか、やめっ…あっ」

  「そんなに売春が嫌なら、俺に惚れれば気分的には売春にならんさ。俺は繭子の時みたいにどっかに売り飛ばしたりしないから、それだけは安心しろ」

 繭子って誰っ!と思いつつも、カイジは防御に手一杯でツッコミを入れる余裕はない。


 ところで、一千万円を月10万ずつで返した場合なら約8年ちょいで完済だが、遠藤の言うところの『肉体労働』は時価評価額である。10代女の子の援交価格も下落の一途を辿る昨今、カイジのお値段も1度につき10万円という破格の値段はつかないわけで…

 ギャンブルで大勝、宝くじで一攫千金、ミリオネアで賞金獲得(でも所得税は引かれるのか?)でもしない限り、遠藤との縁はなかなか切れないようである。




 なにはともあれ、ご利用は計画的に。